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東京地方裁判所 昭和44年(ワ)14297号 判決

原告 徳丸学

原告 徳丸経子

右両名訴訟代理人弁護士 田原俊雄

同 大川隆司

被告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 亀井秀雄

被告 墨田区

右代表者区長 山田四郎

右訴訟代理人弁護士 斎藤義家

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一、原告ら

被告らは各自、原告らそれぞれに対し金二九二万五六四二円およびこれに対する昭和四五年四月二三日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

訴訟費用は被告らの負担とする。

二、被告ら

主文同旨

第二、当事者の主張

(請求原因)

一、原告徳丸学は昭和三四年六月一五日原告徳丸経子と婚姻し、訴外森戸昭英、同由子の子信博(昭和四三年三月九日生)を昭和四三年三月九日養子としたのであるが、原告学は東京会計簿記学校に教務課長として勤務し、原告経子も生計を支えるため右学校にタイプ科教師として勤務していたので、右信博の保育についてはそのための施設又は人を必要としていた。

二、そこで原告らは同年六月二四日被告甲野花子と契約し、委託料基本料金月額六〇〇〇円、委託期間昭和四三年七月一日から同年一二月二八日まで、委託時間午前八時から午後五時までの約束で同被告に信博の養育を委託し、その後合意のうえ委託期間を昭和四四年三月三一日まで、委託時間を午前八時三〇分から午後五時までと変更した。

しかるところ、同四四年三月三日右委託時間中に信博はミルクを多量に飲みすぎたか、もしくはミルクを飲んだ後気(いわゆるゲップ)を出させないで横臥させられたため、就寝中にミルクを吐き、それを気管に吸引して同日午後三時頃窒息死した。

三、(被告甲野花子の責任)

被告甲野花子は被告墨田区の認定を受けた家庭福祉員であって、区の紹介を経て委託を受けた児童を養育することを業とするものであるから、委託契約の趣旨に従い児童を受託中は誠実かつ安全に受託児童を養育する契約上の義務があり、授乳の際には終始そばにつきそって適量の授乳をなし、授乳後気を出させるなど必要な措置をとり、その後も吐乳などのないように児童の姿勢を正したり、吐乳した場合直ちに除去するなどして不測の事態が起らぬよう注意し、一旦異常が発生したときは直ちに発見し至急医師などに連絡して適切な措置をとるべき義務がある。

しかるに、被告甲野は本件事故当日信博に授乳した後気を出させないまま万一吐乳などした場合にはその吐瀉物を吸引しやすいうつぶせの姿勢で寝かせ、しかもその後同人に対する注意を怠った結果、通常なら物音および同人の身体の動きにより当然判明する筈の同人の吐乳の事実に気づかず、同人の吐乳後直ちに吐瀉物を除去する措置をとらなかったため、本件事故を惹起し、信博を死亡するに至らせたのであるから、被告甲野は右死亡事故発生につき債務不履行又は不法行為責任を負い、これによって原告らに蒙らしめた損害はこれを賠償すべきである。

四、(被告墨田区の責任)

(一) 被告甲野は前述のとおり被告墨田区家庭福祉員であるところ、同区の家庭福祉員とは同区長の定める「東京都墨田区家庭福祉員運営要綱」所定の基準を充足する者の中から区の職員をもって構成する資格審査会の審査を経て区長が認定するものであって、認定を受けた家庭福祉員に対しては、保育上必要な遊具等の設備を無償で貸与する一方、家庭福祉員は受託児の養育にあたり区長の定める「東京都墨田区家庭福祉員受託児童養育規準」およびこれに基づく指導・助言に従わなければならず、これに反するときは前記認定が取消されるのである。

区は養育の委託を希望する者に対しては、前記認定を受けた家庭福祉員のうちから特定して紹介し、その両者の結ぶ契約内容についても「東京都墨田区家庭福祉員制度事務取扱要領」に掲げられている一定の形式により、その受託料も右「事務取扱要領」に定められている標準額にそうよう指導しているものである。

(二) ところで特別区たる被告区は児童福祉施設として保育所を設置しこれを管理し、保護者の労働等の事由によりその監護すべき乳幼児の保育に欠けるところがあると認める場合に保育所に入所させて保育しなければならず、附近に保育所がないときはその他の適切な保護を加えなければならない(地方自治法第二八一条第二項第四号、児童福祉法第七条、第二四条。)のであって、被告区の上記家庭福祉員制度は附近に保育所がないときに保育に欠ける乳児に適切な保護を加えるためのものである。

(三) したがって被告甲野は家庭福祉員として被告墨田区の公権力の行使に当る公務員というべきであるから、被告墨田区も家庭福祉員である被告甲野の過失により原告らの蒙った損害を賠償すべき義務がある。

仮に右主張が認められないとしても、右事情のもとにおいては被告甲野は被告墨田区の被用者というべきであるから、被告墨田区は使用者として被告甲野がその事業の執行につき過失により原告らに与えた損害を賠償すべき義務がある。

≪以下事実省略≫

理由

一、請求原因一の事実は、原告らが徳丸信博の保育のための施設又は人を必要としていたとの点を除いては当事者間に争いがなく、≪証拠省略≫によれば、被告甲野が右信博について請求原因二、記載の約で児童養育委託をうけ、後に委託期間を右二記載のとおり変更したことが認められ(原告と被告甲野の間では右の点につき争いがない。)、昭和四四年三月三日右信博が死亡したことは当事者間に争いがない。

二、≪証拠省略≫によれば、

昭和四四年三月三日信博は午前六時三〇分ころ起き午前八時ころミルク約一〇〇CCを飲み、パンを食べた後、原告らによって被告甲野花子宅へ八時五五分ごろ連れて行かれ、同被告宅で午前九時四〇分ごろから一一時五〇分ごろまで睡眠をとり、その後一〇分位かけてミルク約一〇〇CCを坐ったまま飲んだあと、四〇分間程同被告宅の三畳の部屋で坐ったまま鏡台の引出をいじったりして遊んでいたが、一二時四〇分ごろから同室に敷かれたふとんで眠っていた。

被告甲野は、当日の原告らの信博の引取予定時刻が午後二時だったのでそのころ信博の枕元で同人の帰る準備をしたあと、信博が寝ている三畳間の隣りの五・五畳の部屋で二、三メートル離れた信博の方を見ながらこたつにあたって夫の甲野一郎と雑談をし、午後二時半ごろ一度信博の枕元へ行って見たが、同人はよく眠っていたので再び前記こたつに戻り、そこでまた夫と話をしていた。その間信博の顔は被告甲野からは見えない位置にあった。

午後二時五五分ごろ原告徳丸学が車で信博を引取りにきたので、被告甲野は前記三畳間に入り信博を背後から抱き上げようとしたところ、同人が苦しそうな表情を示しその顔面が赤黒くチアノーゼ状を呈し、ふとんに黒いようなものを吐いていたので、同被告は急いで夫と原告学に対し危急を報せ、信博を抱きかかえたまま直ちに原告学の車に乗り、同被告の指定医星忠夫が院長をしている星病院へ急行したが、三分位かかって同病院へ到着した頃には信博は心臓の鼓動も定かではなく、同病院到着後同病院の医師奥田康平が注射、人工呼吸、酸素吸入などの処置を施したが、遂に同午後四時ごろ同医師は信博の死亡を宣告した。

以上の事実が認められ(る。)≪証拠判断省略≫

三、≪証拠省略≫によれば、信博の直接の死因は白色乳汁液を吸引したことによる窒息というのであり、これと右二、に認定した、信博が当日ミルクを飲んでいた事実及びその後信博がふとんの上に何ものかを吐いていた事実とを総合すれば、信博は口腔内にもどしたミルクを気管内に吸引したことによる窒息によって死亡したものと推認することができる。

四、そこで右吐乳吸引の原因について判断する。

(一)  原告らは信博が吐乳した原因は被告甲野が信博にミルクを飲ませすぎたか、授乳後に気を出させないで横臥させたからであると主張する。しかし、信博は前記二に認定のごとく、三月三日午前一二時ごろミルク一〇〇CCを坐ったまま飲んだあと四〇分ほど遊んでいたのであり、しかもその吐乳は午後二時五五分よりすこし前くらいという時点なのであって、ミルクを飲ませすぎたといえないことは≪証拠省略≫に照らしても明らかであるし、また、生後間もない乳児の場合は授乳後気を出させないままで寝かせると吐乳する恐れがあるけれども、生後四か月以上にもなれば授乳後五分ないし一〇分も経てば自然に気が出るのが通常であることが≪証拠省略≫により認められることに徴しても、前記授乳の際に被告甲野が信博に気を出させるための特別な処置をとらなかったことが原因で信博が吐乳したとは到底考えることができない。

(二)  原告らは被告甲野が信博をうつぶせの姿勢で寝かせていたことが吐乳吸引の原因であるとも主張するが、≪証拠省略≫によれば、本件事故当日被告甲野が信博をうつぶせの姿勢で寝かせてはいなかったことが認められる(≪証拠判断省略≫)のみならず、仰向けに寝ていた場合と比較してうつぶせに寝かせた場合に特に、吐乳や吐瀉物の吸引を生じやすいと一般的に断定することは困難であるから、原告らのこの点の主張も理由がない。

(三)  むしろ

1  ≪証拠省略≫を総合すると、信博は発育が遅れ、体重も同年令児の平均を下廻って痩せていて、どちらかといえば虚弱な体質であったと認められること。

2、≪証拠省略≫によると、信博は昭和四四年二月の末ごろから本件事故発生当日まで軽度の気管支炎にかかり、いわゆる鼻かぜの症状を呈していた事実が認められること。

3、≪証拠省略≫によれば、昭和四四年三月一日の夜から翌二日中において信博はパン、ミルクのほか、チーズ、鶏のからあげ、カステラ、石焼芋、あんず、玉子中華、ソーセージ、ビスケット、パイン・桃の罐詰、おじや等を摂取したが、二日は原告らの弟方へ行って誕生祝いをしたためもあって、飲食が多種にわたり、量的にもやや食べ過ぎ、かつ食べ続けの嫌いがあったと認められること。

等を彼此勘案すると、信博の吐乳吸引の原因は、当日同人が体調をこわして日頃にもまして体力が落ち、消化機能や誤嚥を防ぐ反射機能が衰えていたことにあると推認するのが相当であると考えられる。

五、次に原告らは、被告甲野が信博に注意を集中していれば、物音や信博の動きによって同人の吐乳の事実に直ちに気づいた筈であると主張する。

一般に児童を預かって養育する家庭福祉員としては、受託時間中は受託した児童の動静に注意を払い、何らかの異常を生じたときはそれぞれの事態に応じてその児童の安全のため適切な措置を講ずべき注意義務があるのは勿論であるけれども、前記二に認定したごとく、被告甲野は信博の寝ている三畳間に隣接した五・五畳の間のこたつで二、三メートル離れて信博を見ながら夫と雑談しており、その間時折は信博の枕元へ行って安眠している様子を確認していたのであるから、被告甲野としては、児童の養育を受託した家庭福祉員に対して社会通念上要求される前記の注意義務は果たしていたものというべきであり、吐乳吸引が必ずしもかなりの音や身悶え等を伴うものとは限らないから、本件事故の発生から直ちに被告甲野の不注意を推認することはできない。同被告において信博の睡眠中といえどもその枕元を離れず、いかなる些細な動きも見逃すことのないように注視していれば、本件の異常事態をより早期に発見しえたとしても、家庭にあって児童を養育する家庭福祉員に対してそこまでの注意義務を負わせることは、社会通念の要請するところを超えるものといわざるをえず、すでに満一才に近くなっていて、前記の如く当日風邪気味であることはうかがわれた筈であるとはいえ、≪証拠省略≫によれば、特別な看護を要する症状まではなかったものと認められる信博の睡眠中に被告甲野のとった行動をもって、養育受託上の注意義務を怠ったものということはできない。

さらに原告らは、信博の吐乳吸引に気づいた後の措置についても被告甲野に注意義務の懈怠があった旨主張するが、≪証拠省略≫によれば、本件のように吸引物が一旦気管に入ってしまった段階では、医者へ連れて行く以外に素人としてはなすべき方法のないことが認められるから、前記二、認定の如く直ちに星病院へ急行した被告甲野の行為には、事後措置として何ら責むべき点はなく、この点の原告らの主張も理由がない。

六、以上のとおり、被告甲野の行為には、養育上の注意義務違反は認められず、信博の死亡について養育受託者としての債務不履行責任ないし過失による不法行為責任を負うべき理由はないといわざるをえないので、その余の点につき判断するまでもなく、原告らの被告甲野に対する本訴請求、および同被告の不法行為責任を前提とする被告墨田区に対する本訴請求は、いずれも理由がないことが明らかであるから、これらを棄却すべきものとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条、第九三条第一項本文を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 横山長 裁判官 松村利教 満田明彦)

〈以下省略〉

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